幼児などの年齢の低い子供の教育をどうすべきかについて考えてみる。

 まず、親や家庭が何を子供に教えどう育てたらよいかについて、しっかりと知恵を持っていて経験や学んで知っていることが重要だろう。教育って学校教育とか学習塾を含めた習い事だけではないのだ。親や家庭が教えることだって教育で、親や家庭が教えることって重要なのだ。

 年齢の低い子供の教育を学校や習い事など、親や家庭のような自分達以外に全てを任してしまうという発想はとても理解できない。こんな重要なことは親や家庭が自分達でしっかりとするべきことだろう。特に子供の年齢が低い時期は親や家庭が子供の教育にしっかり関わるべきだろう。教育というのは国語や算数を教えることだけを意味するのではなく、生きていく上で遭遇することあらゆることに関して教えることを意味する。その人の人生がすばらしいものになるように育てることが重要だろう。

 学校や習い事といっても、そこで登場する人が必ずしも優れた人間性の持ち主とは限らない。問題人物、教育者としてふさわしくない人もいるだろう。人間性に問題があり問題人物である人がいるのは教育業界だけではないだろう。他の業界にもいるだろう。人間性に問題がある人になったのは、仕事以外のことが原因かもしれないし、仕事環境がそうしたのかもしれない。社会にとって正負のどちらの影響かは何をもってそう判断するかだが、ある見方をすれば負の影響を与えている仕事があるだろう。様々な仕事を思い浮かべてほしい。そういう負の影響を社会に与える仕事を作業としてするうちに環境が人間性を狂わしていったのかもしれない。しかし、母親が母性を狂わせそれで子供を育てることがよいことだろうか。もちろん現実問題お金は重要だ。収入を得る活動をする必要がある場合はあるだろうし、母親が働かなくても万一収入を得ている人が病気になった時のためとか、生きがいとか、貯蓄とか、そういうために働くことを否定しない。しかし、母親は人間性を狂わせ母性を狂わせるようなことにならないようにすべきだろう。

 資本主義と、共産主義や社会主義という対立軸について、資本主義や共産主義や社会主義といっても様々な有り様が考えられるだろうが、共産主義や社会主義が全体主義思想・画一化に行き着くということを考えることができたとして、資本主義はどうかというとやはり金儲けで資本家が資本を多くもつと独占の方向に向かい資本を通して社会を画一化する方向に進むことが考えられるであろう。

 何を右派左派というかの問題はあるにせよ、極左を北朝鮮のような共産主義とした時、個性や自由を失った全体主義や画一化されたものの強制になるし、極右を国粋主義・排他主義・ナショナリズムの極端なものとして考えるならこれもやはりある領域内であるものを押し付ける画一化になるだろう。

 グローバル化といった時、国境をなくし全てを均一にすることを極端におし進めるとこれも画一化になるだろう。

 共通することは画一化・没個性である。
 個性・個人を大切にするか画一化・全体化するか、この視点を取り入れて物事を考えると別のものが見えてくるのではなかろうか。

 学校教育はその内容を作る勢力が支配してしまえば、個性を消し画一化するための道具になる。学校は人間を家畜として飼う道具となるのだ。学校で教えていることが世の中の全てであるわけがない。

 もちろん日本語が使えたり、算数ができたり、これはある程度みんなに共通してできるようにした方が今の世の中良いのではないかということもあるだろう。たとえある一つの授業時間のあるクラスの単位であっても画一的なことを一切教えてはならないなどと言っているのではない。
 また、日本人という民族の独自性を否定するものでもないし、大規模自然災害の時には国のことや自国民のことを思うのを悪いと言っているわけではない。問題としているのは国家が個人を支配してしまうことである。
 他国が大規模自然災害の時にあった時、支援するのを悪いと言っているわけではない。

 年齢の低い子供の教育は、親や家庭での教育を重視し、個性を大切にすべきである。その上で習いたいのなら習うとよいことは習い事などを使い、学校もどうせ行くなら役立つ部分は役立てると良いのだが、個性を喪失し人間性を喪失しないようにしたいものだ。学校教員には人間性が壊れた人がいる、悪い影響を受けないことだ。学校の問題点を理解しておくべきだろう。学校は人間を統制する道具だ。

Posted by 大学教員を許さない at 01:00│Comments(0)
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